The Way I See
Sugar Store Gallery, Brewery Arts Centre, Kendal
→ 19th July ~ 27th September 2013
Japan House Gallery, Daiwa Anglo-Japanese Foundation, London
→ 24th October ~ 13th December 2013
産業革命による近代化の波に抗い、自然と人間との関係性を叙情豊かな詩情に昇華したロマン派詩人ウィリアム・ワーズワースをはじめ、ナショナル・トラスト運動に多大な貢献を果たした絵本作家であり自然環境保護活動家としてもつとに知られるビアトリクス・ポターなどの尽力により、現在でも世界で指折りの景勝地として名を留める湖水地方。観光シーズンには多くの日本人で賑わう湖水地方を含むカンブリア州は、また他国人の全人口に占める割合がイギリス国内で最も低いことでも知られる。洪水、ライフル乱射殺人事件など、近年幾多の艱難に見舞われながら、なおもイギリス随一の景勝を留め、世界中の人々を魅了し続ける湖水地方において、当地を拠点に活動する日本人美術家として、この湖水地方を主題とした極私的レベルでの芸術的アプローチを試み、新たなコミュニケーションの可能性を探ろうと考えたのが、本プロジェクトの始まりだった。
ところで、情報科学の飛躍的進歩にもかかわらず、“見る”という行為は、有史以前から今日に至るまで、さらに将来にわたって、人間の認知プロセスにおけるコアの活動であるに相違ない。それは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の感覚5器官を通して人間が外界から摂取する情報のうち、その87%を視覚に負っているとの、色彩科学の分野における見解にも明らかだ。本プロジェクトでは、この“見る”というコアの認知行為に焦点を絞り、認知から理解を経て抽象解釈、そして創造性を介して芸術表現へと至るプロセスにおける、極私的な芸術的アプローチを試みた。
本シリーズでは、日本人美術家として湖水地方を拠点に活動を始めて以来、ボクが日常的かつ個人的に知るようになった湖水地方の人々のポートレイト・シリーズとしてプロジェクトを構想した。しかし、それは単なる特定個人の肖像に留まらない、コンテンポラリー・ポートレイトの可能性に挑む試みだ。そのため、全作品は二連画形式を採用し、人物の対となるイメージは湖水地方で観察された落ち葉のシリーズで構成されるよう構想。しかも、この落ち葉のシリーズをまとめると一つの敷き詰められた落ち葉のイメージとして完結し、これを通して美術家の個人視点で結び合わされた個々の肖像が、マクロ視点でも統合される作品として完結する。ボクにとって落ち葉は、マクロでは文明の秋を、またミクロでは個人存在の脆弱さを示すメタファーの一つであり、バロック美術に顕著な“メメント・モリ(死を思え)”という思想の敷衍だ。また、この二連画の対比は、聖書主題の人物画を聖としたバロック時代にあって、それと同様に聖なる主題として静物画を初めて位置づけたカラヴァッジオの思想を反映したものだ。本作品における落ち葉は、文明の秋に直面する現代人の政治的・軍事的・経済的・文化的・イデオロギー的・宗教的・哲学的・社会的・歴史的・地球環境的など、多角的な局面における危機の象徴的枠組みとして人物に対比される。
それはまた、視覚イメージ(映像)の孕む根本問題、すなわち「視覚イメージは“否定形”を表現できない」ことへの挑戦ともなっている。たとえば、「テーブルの上にコップがない」という視覚イメージは描くことができない。この文字が獲得した“否定形”への美術的挑戦を果たしたのは、おそらくルネ・マグリットだけではないかと思う。パイプを描きながら、その絵の下に「これはパイプではない」というテキストを挿入することによって、パイプとしての見かけの存在を否定したわけだ。本作品では、落ち葉のイメージをメタファーとして、ポートレイトが通常要求するところのモデルの現前性を否定しつつ、過去・現在・未来において描かれることのなかった/ない/ないであろう圧倒的大多数の存在者(往々にして弱者でもある)を象徴的に描き上げることで、“否定形”への美術的挑戦を試みている。それによって、ポートレイトの持つモデルの特権性を剥奪して非在の地平に降ろし、人間存在の脆弱性・尊厳についてその真意を問う視覚言語の可能性を模索している。また、本シリーズを、人間の日常の営みの基本的時間単位である12進法を基調とした12作品として完結させることで、より普遍的な対話の可能性をも指向している。
以上のコンセプトの下に統合された本シリーズは、また脳生理学研究や初期ルネッサンスの最大の成果であるディセーニョなどに触発されてボク自身が開発した、日本の墨とアクリルの併用による線描技法によって緻密に仕上げられている。墨の使用は、自らの民族的・文化的ルーツを尋ね、西洋と東洋を結ぶ表現の可能性を模索する一美術家のたどり着いた様式にほかならない。そして、この技法を通して人間固有の認知と思考のプロセスの発露としての絵画(ドローイング)の位置が、文字の発明によってどのように変化し発展を遂げたのか、その今日的な意味を問い直しているのだ。それは、ほかでもない“人間存在とは何か”という問いかけに、美術という肉体を付与しようという試みであり、本プロジェクトはその一環として、視覚美術における鑑賞者との新たな対話の可能性を模索したものだ。