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About Me

『線と線との関係が生み出す多様性は無限だ。その条件下で、質が具現化される。それは、私たちが識別するものと私たちの中に先在するものとの間に認められる類似性の、これ以上約分不可能な総和なのだ。』

A.グレーズ & J.メッツァンジェ

Hideyuki Sobue at his studio

  クはいつも自問せずにはいられない、いったい芸術とは何なのか、と。視覚メディアが暴力的に横溢するなか、メディアクラシー(メディアによる政治操作、その逆も真)とメディアによる大衆操作に踊らされているに過ぎないと映る現代社会に暮らし、ことに美術史においてはダダイズムを掲げて美術の意味をそっくり塗り替えてしまった、あるいは“芸術の死”を宣言したはずのマルセル・デュシャン以降、芸術の名のもとにあらゆる表現が可能とされる(それこそレディーメイドの“便器”も美術品なのだ)におよんで、それならばボクにとって“描くという行為”に何の意味があるのか、と自問せざるを得ないのだ。もちろん、その議論にはいたく興味を覚えるし、世界対戦を経験した者のみが有するイデオロギーの虚無といった時代精神を表現に昇華し得たその伎倆、またこれを当時の美術界に確たるイデオロギーとして位置づけることに成功し得たその説得術には、ただ感服するのみだ。それにしても、はたして美術とはそればかりと言い切れるものだろうか。この複雑怪奇な現代社会にあって、美術をもって何を語り得るというのだろうか。

  ボクは美術家として、常々人間という特有の存在に関心を寄せている。DNAの配列ではチンパンジーと99%変わらない。しかし、およそ地球上の生物のうち、人間ほど特有で比類ない存在はない。多様の文化を生み、幾多の文明を築いてきたのは人間だ。その同一線上で、思慮に欠けた無謀な開発と発展により、環境破壊という負の遺産に直面させられているのは嘆かわしい事実だ。しかし、芸術的、文化的、科学的遺産の豊かさはまた、人間の固有性の賜物だ。この人間の特有性は創造性を抜きには語れない。ボクは思う、美術は人間の本質の根幹にあって、その創造性は人間の精神性に深く根ざすものだ、と。そして、ドローイング(絵を描くこと)は、人間の創造性の根幹をなすものだ。と。ところで、20世紀後半に南フランスで最初期の洞窟画が発見され、30,000〜35,000年前のものと推定された。しかし、近年インドネシアで最古の洞窟画が発見され、少なくとも45,500年前のものと発表された。それは現生人類でなく、ネアンデルタール人の手になるものであるかもしれないというので、学界に波紋を投げかけている。いずれにせよ、世界最古の写実描写による洞窟画であるには違いなく、研究者は、デニソワ人などの旧人でなく、現生人類、すなわちホモ・サピエンスによる創作であるとして議論を呼んでいる。

  その起源はボクの想像に余ることとはいえ、文字が生み出される遥か以前に人間は絵という手段を持っていたのは確かだ。最古の文字は古代メソポタミア文明のシュメール人が用いた楔形文字であることは学界の一致するところだが、それは紀元前3,000年頃とされる。すると、絵という手段が生み出されたのと文字の発明との間には、少なくとも42,000年もの隔たりがあるわけだ。この点、脳科学者岩田誠氏の提案は興味深い。すなわち、人間の定義はホモ・サピエンス(賢いヒト)、ホモ・ファベル(作るヒト)、ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)などではなく、ホモ・ピクトル(描くヒト)とすべきではないか、と。人間の重大なコミュニケーション手段が、いかにして、またなぜ絵から文字へと移行したのか、ボクの関心は尽きない。ともあれ、確かに絵は、有史以前の古代社会にあっては宗教儀礼あるいはシャーマニズムに仕えたはずだし、文字を生み出す契機ともなっただろう(現在も無文字社会は存在するし、インカ帝国に見られるように文字をもたない高度文明も存在したとはいえ、この事実は決して否定できない)。あるいは、文盲率の高かった時代に“意味”を伝える手段として仕え、文明の生成の基幹ともなったことだろう。そして、人間の想像力を育み、豊かな創造性と感性を醸成してきたはずだ。  

  この絵と文字との関係性、そして技法的な革新について模索していた2002年のこと、ボクはある本と出会った。ロンドン大学旧神経生物学教授、現神経美学教授のセミール・ゼキ氏の著作である『脳は美をいかに感じるか<原題 "Inner Vision">』だった。それは、脳科学的見地から美術を読み解くもので、ゼキ氏はその一章を線の重要性に割いている。曰く、脳生理学的見地では、視覚脳における事物の知覚プロセスは、形態・空間・色彩いずれにおいても、方位選択性細胞により線的記号として処理されている、と。ゼキ氏は、膨大な研究データを駆使して人間固有の美術と創造性に深く切り込んでいるわけだが、その研究成果は脳美学に結実する。ボクは美術家として、人間の視覚情報プロセスにおける視覚脳の線的処理に大いに興味を覚えた。それが、日本の墨とアクリルを併用するボクの線描技法開発の糸口となった。それはまたイタリア・ルネッサンスを牽引したフィレンツェ派の美術家たちにより確立された、ドローイングを基礎とする美術的アプローチであるディゼーニョに着想を得たものだ。墨とアクリルの併用は現在のボクの創作活動の基幹を成すもので、古くは中国より伝播し日本独自の技法にまで昇華・定着した墨絵(長谷川等伯はその白眉)のもつ魅力に端を発し、西洋と東洋の豊かな美術的・文化的・思想的遺産を結ぶボクの美術家としての挑戦にほかならない。

  今日、人間はかつてない激動の時代に直面している。AI(アーティフィシャル・インテリジェンス/人工知能)台頭の時代だ。それは、人間の存在論的危機を意味するものだ。ボクは自問する、果たして人間とは何であるのか、と。人間の深奥、すなわち精神性から湧き上がる美術こそ鍵となるに違いないと、ボクは思う。この問いかけに自身の視覚言語をもって答えを見出したいと願って、日々創作に臨んでいる。

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